御祭神
吉弘嘉兵衛統幸(よしひろ かひょうえ むねゆき)
― 永禄7年(1564)~ 慶長5年(1600)ー
御神徳
吉弘神社・統幸公の墓に詣でると、統幸公の勇猛さで病気や災事を吹き飛ばし健やかでいられる、と参拝者が絶えなかったと云われています。
病気平癒、身心健康、厄除、除災招福、家内安全、商売繁盛、交通安全 等
由 緒
吉弘統幸は、豊後国都甲谷(大分県豊後高田市)に拠した吉弘家最後の当主。
西国東の要である屋山城を任され、多くの合戦で武功をあげました。槍の名手として知られ、秀吉から皆朱の槍を授かったほどでありました。
慶長5年(1600)統幸は、かつての主君大友義統に従って別府の石垣原において黒田官兵衛の軍と激戦を繰り広げ、黒田方の井上九郎左衛門との一騎打ちの末壮絶な死を遂げました。
統幸の忠義を重んじた生き方は、敵味方問わず称えられ、黒田家の記録には「真の義士」と紹介されるほどでありました。
首は、黒田官兵衛の命令により統幸の郷里屋山城に送られ、屍は別府の此の地に埋葬されました。
慶長5年(1600)9月13日 行年38歳
辞世の句
明日は誰(た)が 草むす屍(かばね)照らすらん 石垣原の今日の月影
慶長5年(1600)9月12日 石垣原の陣にて